日本橋キリスト集会
                
Nihonbashi Christ Assembly
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       2011年10月30日(日) バイブルアワー
    
               


 
秋深まる10月の第5の日曜日、世田谷区
の経堂キリスト集会の三浦富雄さんをお迎え
して聖書のお話をうかがうバイブルアワーが
開かれました。今回は、両親と共に来られた
中学生や高校生、大学生そして熟年の方々
など色々な世代の求道者がみえて心静かに
聖書のことばに触れる幸いなひと時が与え
られました。又、姉妹方のお手製のケーキと
おいしいコーヒーや紅茶などをいただき
ながらお隣のクリスチャンの方々とも交わり
感謝なひと時でした。

 


    
今日のお話のキーワードは『神様の視点』です。人が色々な物や現象、状況を見て
    とらえる時2つの視点があるように思います。1つはすべての人が生まれながらに
    もっている視点です。つまり自分の経験や可能性、知識をもってこの世を生きている方の
    視点です。もう1つは神様が地上の一つ一つのでき事を、私の人生を、私自身のことを
    どうご覧になっているのか、という神様の視点です。この視点をもっている方は大変
    少ないのです。イエス・キリストを信じるクリスチャンは、この神様の視点をもっています。

    私は27歳の時、イエス様と出会いました。その頃、聖書のあるみことばを読みました。
    “心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。”
                              (マタイの福音書5章3節)
    「心」「貧しい」「幸い」といった一語一語の意味はわかるのですが、それがつながり
    一つの文になると、その意味がわからなくなってしまうのです。なぜ心の貧しい者は
    幸いなのか。一般的に考えたなら、不幸なことなのに。

    この初めての体験を通して聖書には、どうやら私の知らない概念があるらしいことに
    気づき始めました。そうです、神の視点に立たなければ、聖書のことばはわからない
    のです。ここから私の聖書探求が始まりました。そしてこの探求はどうすれば神の視点を
    手に入れることができるのかという思いに導かれて行きました。自分でも聖書を読み、
    聖書の神を知るようになりました。又よく聖書のお話も聞きました。そして段々と私の
    霊的眼は開かれていき“もし、神がいるとすれば(聖書には「神がいる」と断言して
    いますが)イエス・キリストの行った数々の奇蹟や復活といった非科学的なできごとも
    信じることができる”と思うようになり、とうとう「イエス様の十字架上の死は、私の
    罪の為であった」と信じ受け入れたのでした。そうです、イエス・キリストへの信仰を
    もったのでした。そして、求めていた神の視点をいただいたのです。すると本当に聖書に
    かかれてあることが、又聖書の神がよくわかってきたのです。

    たとえば、聖書に次のようなみことばがあります。“十字架のことばは、滅びに至る人々
    には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。”(Tコリント1章18節)
    人間的視点で見るならば、イエス様の十字架の死は理解しがたい事かもしれませんが神様の
    視点でみるならばそのみわざは、人を罪の滅びから救う神の力だと聖書は言うのです。

    どうか今日来られた方々が、聖書の神を追い求め、集会に何度も足を運びメッセージを聞き
    続けまことの神と出会われ、神の視点をもつ方となられますよう、せつに希望いたします。

             
     







姉妹達の手作りのケーキです